中学受験の歴史は範囲が広いため、時代ごとに区切って勉強するのがおすすめです。
その中でも覚えることが多いのが平安時代です。
政治の形ができ、日本風文化が起こったりと内容がたっぷりあります。
流れに沿って重要ポイントを整理するので、ぜひ参考にしてください。
平安時代は覚えることがたくさんある
奈良時代の中ごろから公地公民が形だけのものになり、寺院や貴族の力が次第に強くなり始めました。
そんな政治の乱れを抑えたのが、天智天皇のひ孫である桓武天皇です。
平安時代は桓武天皇を起点に流れるようにして、起こった出来事を覚えていくことがポイントです。
ここからは歴史の流れに沿って、平安時代の重要ポイントを整理していきます。
桓武天皇が794年に平安京に遷都した理由とは
歴史の勉強をするときに、「鳴くよ(794)ウグイス平安京」と語呂合わせで覚えるのはあまりおすすめしません。
なぜなら「794年・平安京」という情報しか頭に残らないからです。
まず、この文のタイトルのように「桓武天皇が794年に平安京に遷都した理由とは」と文章にして、
という風にして内容を覚えていきましょう。
桓武天皇が平安京に遷都した理由は、政治の世界でも力を付けてきた貴族や僧侶・寺院の力を抑えるためです。
また平城京からすぐ平安京に遷都したのではなく、平城京、長岡京、平安京の順に遷都しています。
桓武天皇が行った3つの政治改革
平安時代になると政治の仕組みが複雑になってきます。
奈良時代の中期から腐敗してきた政治を改革するために、桓武天皇立ち上がったと理解しておきましょう。
ここからは桓武天皇が行った良く出る4つの政治改革について説明します。
政治改革①:国司の不正を取り締まり、律令政治を立て直した
中大兄皇子(天智天皇)が大化の改新で唐から取り入れた律令政治は、天武天皇の時代でしっかりとした形になります。
その後再び乱れた律令政治を桓武天皇が立て直しました。
それにより公地公民・班田収授の立て直しにもつながりました。
政治改革②:東北地方の蝦夷を坂上田村麻呂に平定させた
東北地方では蝦夷に対して、朝廷は武力で従属させようとしていましたが常に抵抗・反乱を受けていました。
そこで桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し蝦夷の反乱を鎮圧させました。
これにより、朝廷の管轄する統治範囲がぐんと広がりました。
単に乱を鎮圧したのではなく、直轄地が増え、朝廷の権力が大きくなったことを理解しましょう。
政治改革③:新しい仏教・天台宗と真言宗を保護した
桓武天皇は奈良時代のような仏教を中心とした政治とは距離を置こうとしていました。
平安京には寺院を造らなかったとも言われています。
ただし、桓武天皇は単に仏教を毛嫌いしていたわけではなく、政治と仏教を切り離すいわゆる「政教分離」の考えができる仏教は保護しようとしました。
そのような考えのもと、唐から帰ってきた二人の僧、最澄と空海が開いた宗派については容認しました。
最澄(伝教大師)は現在の滋賀県・比叡山に延暦寺を建立し天台宗を開きました。
一方、空海(弘法大使)は和歌山県・高野山に金剛峯寺を建立し真言宗を開きました。
二人とも一緒に唐に留学していました。
貴族を強大化させた不輸・不入の権
桓武天皇の政治は次の藤原氏による摂関政治につながっていきます。
そこで流れとして覚えておいた方がいい用語が「不輸・不入の権」です。
不輸とは荘園が税を納めなくてもいい権利、不入とは国司の使いである検田子の立ち入りを認めない権利です。
この権利をずる賢く利用した人たちがいました。
形だけ貴族たちに自分が開いた田畑を寄進(寄付)し、その貴族たちがもつ特権「不輸・不入の権」の恩恵に預かったのです。
そのため、朝廷は税収を従来通り得ることができず、財政が悪化しました。
この中で突出して富を掴んだ藤原氏が政治の世界に出てくるようになるのです。
このように桓武天皇→不輸・不入の権→財政悪化→豊かな藤原氏の台頭という流れで覚えると、記憶に定着しやすくなります。
藤原氏は道長・頼通親子の摂関政治で栄華を極める
藤原氏は9世紀ごろから、藤原良房、基経ら親子により摂関政治が行われて来ました。
それから2世紀後、1016年に藤原道長が摂政になったあたりから藤原氏は栄華を極めました。
道長の子が頼通で、頼「通」のみちを道長の「道」と書き間違いやすいので注意してください。
また、藤原氏がこの時代に栄華を極めた象徴的な歌があります。
という道長が詠んだ望月の歌はとても有名なので覚えておきましょう。
意味は「この世は私の世界だと思うほどだ。満月のように、私に不足しているものはひとつもない」です。
政治的地位・財力全てにおいて満たされていたことを表わしています。
平安時代に遣唐使を中止したから、国風文化が発展した
894年に菅原道真の提言により、遣唐使が中止されました。
ここで覚えておくことは、遣唐使を中止した理由です。
主な理由は次の3つです。
2)遣唐使を派遣するのに、莫大な費用がかかるから
3)唐までの航海はとても危険であったから
遣唐使の派遣の中止とセットで覚えるのが国風文化です。
国風文化とは、日本独自の生活習慣に合う独自の文化のことです。
894年・9世紀末頃から発展したと覚えてください。
国風文化では「かな文字」文化が発達した
国風文化では漢字ではなく、日本の言葉を表わす表音文字‐「かな文字」が誕生しました。
このかな文字を起点として和歌・物語・随筆が発達しました。
覚えておくべき作者や書物は次の通りです。
物語:紫式部「源氏物語」
随筆:清少納言「枕草子」、紀貫之「土佐日記」
その他物語:「竹取物語」、「今昔物語」
国風文化、その他に注目する点は?
国風文化といえば和歌・物語・随筆以外にも絵画・建築・仏像彫刻も発展しました。
絵画は「源氏物語絵巻」「鳥獣戯画」が頻出です。
言葉だけではなく、実際の絵も見て覚えてください。
また建築物・仏像彫刻の覚え方は、社会情勢と合わせるとスッと記憶に定着します。
まず前提として平安時代中期ごろは、伝染病・災害により不安定な社会になります。
そこを救ったのが空也による「浄土教」です。
浄土教の教えにある極楽浄土を実現したのが阿弥陀堂です。
この阿弥陀堂として有名なのが藤原頼通によって建てられた「平等院鳳凰堂」や奥州藤原氏によって建てられた「中尊寺金色堂」があります。
どちらも寝殿造の建築様式を取り入れており、世界遺産に登録されています。
平安時代末期は、武士の時代の始まり
地方の豪族が田や畑を自分のものとして広げていく中で、そのガードマン的な役割として誕生したのが「武士」です。
西国は平氏・東国は源氏が力をつけていったのですが、この頃から大きな4つの争乱が
「藤原純友の乱」
「前九年の役」
「後三年の役」
の順に起こります。
平将門の乱は平将門が東国に国家を作ろうとした乱です。
藤原純友の乱は瀬戸内海で海賊と手を組み、大宰府を襲った乱です。
次の前九年・後三年の役は、関連付けて覚える必要があります。
前九年役では東北地方を源頼義・義家が乱を鎮圧、その32年後、後三年の役では清原氏一族の内紛を源義家が藤原清衡側について鎮圧させました。
この藤原清衡は先ほど説明した「中尊寺金色堂」を建立し、奥州藤原氏を創った人物です。
4つの争乱は年度順だけでなく、誰がどこで何をしたのかを抑えておくと混乱しません。
白河上皇による院政がきっかけで2つの乱が起こる
武士の台頭とともに摂関政治が終わり、白河上皇が院政を始めます。
院政とは退位した天皇が上皇となり、天皇の代わりに政治を行うことです。
この院政がきっかけで天皇と上皇が争うようになり1156年保元の乱・1159年には平治の乱が起こります。
平治の乱では平氏が源氏を抑え込み、平清盛が太政大臣として政治の中枢を担うようになります。
平清盛は貿易と神社を覚える
平清盛のキーワードは朝廷最高位の「太政大臣」、中国宋と貿易をした「日宋貿易」、平氏の氏神を祭った「厳島神社」です。
厳島神社(広島県)は瀬戸内海にある世界遺産です。
地理の問題としても出題されるので関連付けて覚えておきましょう。
県名まで覚えておく源平3つの戦い
平氏の政治を独占する動きに次第に反感が高まります。
そこで源頼朝が北条氏や東国の武士たちとともに平氏と戦います。
一の谷の戦い(兵庫県)
そして壇ノ浦の戦い(山口県)
を経て平氏を滅ぼします。
それぞれの戦いが行われた現在の県名もあわせて覚えておきましょう。
平安時代は覚えることが多い、だから順番に流れを理解する
このように平安時代は政治や文化、争乱など覚えることがとても多い時代です。
そのため、誰がいつどこで何をしたのかを理解し、次に何が起こったのかを繋げることが大切です。
数珠繋ぎのように、ひとつの出来事から派生していきます。
最初の桓武天皇がなぜ平安京を開いたのかをしっかり理解して、次々と覚えていき壇ノ浦の戦いまで繋いでいってください。