中学受験対策!飛鳥時代の出来事まとめを詳しく解説|大学受験エリート

中学受験対策!飛鳥時代の出来事まとめを詳しく解説

 

中学受験対策で避けては通れないのが「飛鳥時代」です。

 

飛鳥時代はかの有名な聖徳太子が活躍した時代であり、さまざまな制度・律令の制定や、遣隋使の派遣・飛鳥文化の開花・度重なる権力争いと都の遷都など覚えることの多い単元でもあります。

 

そこで、ここでは飛鳥時代の出来事のまとめを詳しく解説していきます。

 

飛鳥時代とは?

 

「飛鳥時代」とは、西暦593年の推古天皇即位から、西暦710年の平城京遷都まで118年間続いた時代のことです。

 

その頃、中国では「隋」「唐」という2つの王朝が勃興し、日本とも深い関わりを持っていました。

 

大陸から仏教が伝わったのもこの時代です。仏教の影響を受けて花開いた文化は「飛鳥文化」と呼ばれ、法隆寺の建立や釈迦三尊像の製作などが行われました。

 

飛鳥時代は、次の3つの時代に大きく分けられます。

1.推古天皇の時代
2.中大兄皇子(天智天皇)の時代
3.天武天皇・持統天皇の時代

 

それぞれの特徴を押さえることで、飛鳥時代全体が理解しやすくなります。

 

飛鳥時代の主な出来事

 

出来事
593年 初の女性天皇である推古天皇が即位 聖徳太子が摂政になる
603年 冠位十二階の制定
604年 十七条の憲法の制定
607年 遣隋使の派遣
645年 大化の改新
663年 白村江の戦い
672年 壬申の乱
701年 大宝律令の制定
708年 和同開珎の製造開始
710年 平城京遷都

 

飛鳥時代のスーパースター「聖徳太子」

 

飛鳥時代を学ぶ上で外せないのが「聖徳太子」の存在です。

推古天皇の摂政として時代の前半を駆け抜けたスーパースター・聖徳太子とは、一体どのような人物だったのでしょうか。

 

聖徳太子はどんな人物?

 

用明天皇の息子で推古天皇の甥にあたる聖徳太子は、女性天皇である推古天皇の摂政として中央集権国家づくりに尽力しました。

 

摂政」とは、天皇が幼かったり女性であったりする場合に、天皇に代わって政治を動かす役職のことを言います。

 

頭脳明晰で政治手腕も優れていた聖徳太子は、推古天皇の厚い信頼を得て、さまざまな制度の制定や中国との外交、文化の促進などを行いました。

 

聖徳太子の行ったこと

 

聖徳太子が行ったことの中でも、特に有名なものが以下の4つです。

 

・冠位十二階の制定
・十七条の憲法の制定
・遣隋使の派遣
・法隆寺の建立

 

冠位十二階の制定

「冠位十二階」とは、能力のある人を役人に登用するための採用制度です。

それまでの「氏姓制度」を打ち破り、純粋な実力重視の採用を行おうとした聖徳太子の理念が感じられる制度と言えます。

頭につける冠の色で地位を12段階に分けたことから、冠位十二階という名前が付けられました。

 

十七条の憲法の制定

「十七条の憲法」とは、朝廷で働く役人たちに対して心構えなどを示した決まりごとです。

「一にいわく 和をもって貴しとなし」という一文は、今でもさまざまな場面で引用される有名な言葉として知られています。

 

遣隋使の派遣

中華思想(中国が世界の中心であるという思想)を持つ中国に対して、対等外交を行うために小野妹子を隋に派遣したのが「遣隋使の派遣」です。

聖徳太子が小野妹子に持たせた手紙の「日出づるところの天子、書を日没するところの天子にいたす」という文章は、前述の十七条の憲法の一文と並び有名です。

 

法隆寺の建立

仏教の教えを厚く信じていた聖徳太子は、「法隆寺の建立」も行います。

法隆寺と、その金堂に納められている「釈迦三尊像」は飛鳥文化を代表する仏閣・仏像ですので、しっかり押さえておきましょう。

 

蘇我氏打倒に始まる大改革「大化の改新」

 

621年に聖徳太子が亡くなると、大和朝廷で実権を握っていた蘇我氏一族が再び勢力を増してきました。

聖徳太子の息子一族を皆殺しにするなど、強引なやり方で権力の座に返り咲こうとした蘇我氏の行く手を阻んだのが、中大兄皇子と中臣鎌足の二人です。

 

二人は、蘇我氏の中で最も強い力を持っていた蘇我入鹿を罠にかけ、殺害することに成功。

古墳時代から権力を持ち続けていた蘇我氏一族が滅ぼされ、その後に行われた大改革を「大化の改新」と呼びます。

大化の改新では「改新の詔」が発表され、国を治めるためのルールが決められていきました。

 

改新の詔

 

都を飛鳥から難波(現在の大阪)に移した後、発表されたのが「改新の詔」です。

改新の詔を理解する上では、次の4つのポイントを押さえておくと良いでしょう。

 

公地公民

「公地公民」とは、これまで豪族のものとされていた土地・人民はすべて国・天皇のものであるという宣言です。

 

班田収授法

「班田収受法」とは、人々の戸籍・名前・住所などの情報を記録し、それらをもとに人々に口分田という田んぼを分け与えると言う決まりです。

田んぼで収穫した米の一部は税として国に納めることが義務付けられており、人々にとってはそれが重い負担となっていきました。

 

租庸調制

中国の「律令制」を参考に作られた税金の制度です。

租・庸・調の3つの区分があり、それぞれ以下のような内容とされていました。

 

「租」:米の収穫量の3%を納める
「庸」:労役、もしくは代用として米や布を納める
「調」:絹・糸・綿などを納める

 

国郡里制

日本を国・郡・里に分け、それぞれに国司・郡司・里長をおいて地方の政治にあたらせる制度です。

国司には都に住む貴族、郡司には地方に住む豪族が主に選ばれました。

大化の改新後に活躍した「二人の天皇」 大化の改新の後、日本は二人の天皇によって変化を遂げていきました。

 

「天智天皇」と「天武天皇」

大化の改新後に活躍した二人の天皇として、「天智天皇」と「天武天皇」が挙げられます。

ちなみに、天智天皇とは蘇我氏一族を滅ぼした中大兄皇子のことです。

天智天皇・天武天皇の時代に起きた主な出来事は、次の3つとなっています。

 

・白村江の戦い
・壬申の乱
・大宝律令

 

白村江の戦い

 

中国の「唐」と朝鮮半島の「新羅」が協力をして朝鮮半島の「百済」に攻め入り、百済を助けるために日本が援軍を送ったのが「白村江の戦い」です。

 

日本は戦いに乗じて朝鮮半島南部の奪取をもくろみましたが、唐・新羅の水軍に敗れる結果となりました。

この戦いの後、中大兄皇子は都を難波から近江(現在の滋賀県)に移し、天智天皇に即位します。

 

壬申の乱

 

天智天皇が亡くなった後、天智天皇の弟である大海人皇子と、天智天皇の息子である大友皇子の間で皇位をめぐる争いが起きます。

 

これが「壬申の乱」です。

争いに勝利した大海人皇子は都を近江から飛鳥に移して「天武天皇」に即位しました。

 

大宝律令

 

天武天皇の後に、天皇の妻であった持統天皇が即位すると、唐の長安にならい、日本初の都城「藤原京」を現在の奈良県橿原市に建設しました。

 

さらに、天武天皇の子供・刑部親王が中心となり、「大宝律令」が制定されます。

律とは刑罰の決まり、令とは国や政治のルールを定めたものです。

 

大宝律令は、日本で作られた律令に加えて、唐の律令を参考にする形でまとめられました。

これにより、日本で初めての律令国家が誕生したのです。

 

まとめ

 

飛鳥時代はそれまでの時代に比べると難易度が高く苦手意識を持ちやすい単元ですが、大切なポイントを押さえて体系的に学習を進めれば、無理なく理解することも可能です。

 

飛鳥時代を勉強する際は、ぜひ上記にまとめた内容を参考にしてみてください。

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